日本中央の碑

日本中央の碑

青森県には「日本中央」と刻まれた謎の碑があり、上北郡東北町にある日本中央の碑保存館で見ることができる。比較的交通量の多い国道4号線沿いにあるのだが、訪れる人はまばらで寂しい場所になっている。
この碑(石)は1949年6月21日、東北町(当時甲地村)の石文集落近くの赤川上流で千曳の川村種吉氏により発見された。
平安時代より「つぼのいしぶみ」と呼ばれる和歌の題材があり、多くの歌人に詠まれてきた。つぼのいしぶみを初めて解説した歌学者顕昭(1130年頃〜1210年頃)の著書『袖中抄』には、

いしぶみとは陸奥のおくにつぼのいしぶみ有り。日本のはてと云り。但田村の将軍征夷の時、弓のはずにて石の面に日本の中央のよしを書付たれば石文と云と云り。信家の侍従の申しは、石面の長さ四五丈計なるに文をゑり付けたり。某所をつぼと云也。

と書かれている。坂上田村麻呂蝦夷追討(東北遠征)の時に石に「日本中央」と刻んだというのである。碑の発見地周辺は古くから「都母(坪)」「石文*1」という地名が残るので、言い伝えどおりの石が現れたということになる。
坂上田村麻呂の遠征は盛岡市近辺の志波城までとされており、田村麻呂に続いて大将軍になった文室綿麻呂の功績が混在しているとされる。綿麻呂は弘仁2年(811年)都母村に進撃している。

さて、かくも辺境の地がなぜ「日本中央」なのか、興味深い仮説を一つ紹介したい。そもそも「日本」という国号の由来は諸説あって定まらない。古代において「日本」を「ひのもと」と訓じて東北地方を指す言葉であったという説がある。大和朝廷の支配が及ばない地、それが日本(ひのもと)であり、その中心がこの地だというのである。この説に基づけば「日本中央(ひのもとのまなか)」と読むそうだ。
「倭・大和(やまと)」と呼ばれた国が、征服した「日本」の名を名乗るようになる。名前までも奪うというのは、面白い仮説ではありませんか。
正直なところ、石の発見が伝説とあまりに合致しすぎていること、刻まれた「日本中央」の字が近年のものとされることが、「嘘臭く」思わせるのも事実です。しかし、謎の多い日本の古代史について、考えを巡らせるきっかけになることもまた事実でしょう。東北は実に奥が深いと思いませんか。
 
つぼのいしぶみにちなんだ歌
石ぶみやつがろの遠にありと聞く えぞの世の中を思い放れぬ  藤原清輔
みちのくの奥ゆかしくぞ思ほゆる 壷の石ぶみそとの浜風  西行法師
みちのくのいはで忍ぶはえぞ知らぬ 書き尽くしてよつぼの石文  源頼朝
みちのくの野をも山をもわけ過ぎて 昔をしのぶつぼの石文  岩倉具視
よしやいま石文なくも坪のさと ますらたけおのしのばるるかな  大町桂月
 
日本中央の碑保存館
青森県上北郡東北町字家ノ下タ39番地の5
0175-64-7979
9:00〜16:00
毎週火曜日、年末年始(12/28〜1/4)休館
入館無料
参考:http://www.thk.net.pref.aomori.jp/sights/chuouhi.html
(追記)「つぼのいしぶみ」をめぐっては、多賀城碑が有名である。

*1:「碑」という字は「いしぶみ」とも読む。