保食神社

保食神社

青森県黒石市を散策していたら、「保食神社」という聞きなれない名前の神社を発見しました。「食を保つ」とは縁起のいい名前だと思い、いつも美味しいものを食べさせて頂いている感謝の気持ちを伝えてきました。
御祭神は保食神(うけもちのかみ)という「食べ物の女神様」。以下、神話における記述。天照大神(あまてらすおおみかみ)は月夜見尊(つくよみのみこと)に、葦原中国*1にいる保食神という神を見てくるよう命じた。月夜見尊保食神の所へ行くと、保食神は、陸を向いて口から米飯を吐き出し、海を向いて口から魚を吐き出し、山を向いて口から獣を吐き出し、それらで月夜見尊をもてなした。
月夜見尊は「吐き出したものを食べさせるとは汚らわしい」と怒り、保食神を斬ってしまった。それを聞いた天照大神は怒り、もう月夜見尊とは会いたくないと言った。それで太陽と月は昼と夜とに別れて出るようになったのである。
天照大神保食神の所に天熊人(あめのくまひと)を遣すと、保食神は死んでいた。保食神の屍体の頭から牛馬、額から粟、眉から蚕、目から稗、腹から稲、陰部から麦・大豆・小豆が生まれた。天熊人がこれらを全て持ち帰ると、天照大神は喜び、民が生きてゆくために必要な食物だとしてこれらを田畑の種とした。
食物神というだけでなく、「頭から牛馬が生まれた」ということから牛や馬の神ともされる。東日本に多い駒形神社では、馬の神として保食神が祀られており、さらに「頭から馬」ということで馬頭観音とも同一視されている。確かに黒石の保食神社には「馬頭観音」と記された碑もあり、馬の神様としても祀られている。ただし、土に埋もれている碑や石像もあり少々気になった。
江戸時代初期に「五穀豊穣の神」「馬の神」として、人々の厚い信仰をもって建てられたのだろう。度重なる飢饉に苦しめられてきた東北地方の歴史を考えると、悲痛な思いが伝わるようである。飢饉という言葉が死語になってしまった飽食の現代日本であるが、先人の苦労を決して忘れてはいけない。

保食神
青森県黒石市元町64
御祭神 保食神
例祭日 7月17日
由緒 寛永18年 (1641)5月、 元町中にて社殿の建立願いを出し早速許可を得て、 三尺四面の堂宇を造営す。 元禄11年(1698)5月以降は黒石領主の祈願所となる。 明治4年(1871)4月神社改正に付き、 同6年(1873)4月17日、 甲大工町の郷社稲荷神社へ合祭、 同7年(1874)4月復社し村社に列せられる。

参考:青森県神社庁
    保食神 - Wikipedia

*1:葦原中国(あしはらのなかつくに)とは、日本神話において、高天原と黄泉の国の間にあるとされる世界。