八甲田山死の彷徨

青森の自衛隊について調べていくうちに、青森、弘前にある陸上自衛隊第5普通科連隊、第39普通科連隊は、八甲田山雪中行軍遭難事件に関連する連隊の流れを汲むものと分かり、遭難事件そのものに関心を持つようになりました。(遭難事件は知っていたけれど、気持ちのいいものではないので、今まで関心は薄かったのでした。)

八甲田山死の彷徨 (新潮文庫)

八甲田山死の彷徨 (新潮文庫)

1902年(明治35年)1月に起こった八甲田山雪中行軍遭難事件を題材にした小説。*1
青森歩兵第5連隊(青森隊)は、空腹、睡魔、絶望、極寒の中で220名中199名死亡という惨劇に見舞われる。悲劇がなぜ起こったのかという理由については、史上空前の大寒*2に襲われた天災という側面と、雪中行軍に対する認識や装備の甘さ、指揮系統の乱れなどの人災の側面があるようです。弘前歩兵第31連隊(弘前隊)は行軍に成功しており、両者の対比にも関心が注がれています。
作者の新田次郎は元気象庁職員であったこともあり、極寒の中での猛吹雪という気象の表現には卓越したものがあります。久しぶりに、読み始めると止まらない(止められない)作品に出会いました。
悲劇の理由について雪中行軍に成功した弘前隊と失敗した青森隊を比較し検討することが可能です。実際に、指揮系統の乱れを理由に取ることで、この小説や映画化された作品である「八甲田山」は、経営学、特に組織論では格好の教材になっています。ただし、青森隊は総勢220名の中規模部隊であったのに対し、弘前隊は30名程度の小規模部隊であったため、この規模の差は大きかったような気がします。例えば、命令の伝達性にも大きな差があったでしょう。
成功と失敗の差の理由に、弘前隊は地元民を案内に用いたのに、青森隊は案内を用いなかったこともあげられています。弘前隊は地元民の助けなくして成功はなかったのに、地元民を猛吹雪の中に放置するという暴挙に出ており、すでに軍人と民間人の間に歴然たる差が生まれていたことが分かります。
成功者と失敗者、士族出身と平民出身、軍人と民間人など様々な対立軸を組み込んで、雪中行軍遭難事件を描き出す新田の技術には脱帽するしかありません。
写真は、雪中行軍遭難記念像(後藤伍長像)です。

*1:歴史的事実のみに基づいたノンフィクション小説ではないので注意が必要である。

*2:雪中行軍が行われていた1902年1月25日には北海道旭川で最低気温−41.0℃を記録するなど、史上空前の大寒波が日本を襲った。