読書・太宰治・人間失格

青森県が生んだ作家、太宰治の「人間失格」が再び脚光を浴びている。
Yahoo!ニュース(毎日新聞)2008年2月26日記事の<太宰治>「人間失格」はブログ文体? デスノートの小畑健の表紙で再び脚光より

小説家、太宰治の代表作「人間失格」(1948年)が読まれている。根強いファンで知られる太宰だが、最近ではコンビニエンスストアにまで「人間失格」が並ぶ。なぜ今、再び人々を引き付けるのか。【太田阿利佐】
 注目のきっかけは07年夏の集英社文庫の若者向け読書キャンペーン。若手編集部員の発案で表紙カバーを「DEATH NOTE(デスノート)」で知られる漫画家、小畑健さんの作品に変えたところ、販売部数が急増し、しかもそれが続いている。同文庫の「人間失格」は1990年初版。07年5月までの累計発行部数37万4000部に対し、表紙を変えてわずか7カ月で14万2000部となった。
 同文庫編集部の小山田恭子編集長は「今や『太宰? 誰?』っていう若い人が多数の時代です。内容は一切変えていないのに、表紙を今の時代にあったものにするだけで、こんなに反響があるとは」と驚きを隠さない。
  (中略)
 東京・新宿の紀伊国屋サザンシアターでは太宰治の評伝劇が上演中だ。タイトルは「人間合格」(井上ひさし作、3月16日まで)。初演から今回の5演目まで演出してきた鵜山仁さんは「2000年前後には、太宰治はもう日本人の視界から消えていくのでは、と思った」と振り返る。
 しかし、今回は「太宰や彼の生きていた時代を全く知らない人が増え、時代が一巡りして新しいフィクションとして味わわれている気がします」。さらに「太宰の文体はインターネットのブログの文体に似ている。特に『人間失格』の一人称のやわらかい語りは、深夜にメールを打つ手つきに近いのでは」と語る。

太宰治の「人間失格」は青空文庫で読むことができる。(本文図書カード
改めて名作とは様々な読み方ができるものだと思った。世代によっても切り口によっても様々な読み方が可能だ。多感な青春時代に読めば、その絶望的な人生にショックを受け、齢を重ねてから読めば、あるがままの姿にむしろ共感を抱くかもしれない。
主人公の精神構造を読み解くことも面白い。こんな一文がある。

しかし、自分の不幸は、すべて自分の罪悪からなので、誰にも抗議の仕様が無いし、また口ごもりながら一言でも抗議めいた事を言いかけると、ヒラメならずとも世間の人たち全部、よくもまあそんな口がきけたものだと呆(あき)れかえるに違いないし、自分はいったい俗にいう「わがままもの」なのか、またはその反対に、気が弱すぎるのか、自分でもわけがわからないけれども、とにかく罪悪のかたまりらしいので、どこまでも自(おのずか)らどんどん不幸になるばかりで、防ぎ止める具体策など無いのです。

自分の不幸は「自分の罪悪」からであり、自分を「罪悪のかたまり」と断ずる主人公。自分に対する「罪悪感」が不幸の始まりであり、罪悪感から「世間」との関わりに常に悩む。この「罪悪感」がどこから生まれたものなのか、心理学などの視点から考えることもできるだろう。
この一文も面白い。

世間。どうやら自分にも、それがぼんやりわかりかけて来たような気がしていました。個人と個人の争いで、しかも、その場の争いで、しかも、その場で勝てばいいのだ、人間は決して人間に服従しない、奴隷でさえ奴隷らしい卑屈なシッペがえしをするものだ、だから、人間にはその場の一本勝負にたよる他、生き伸びる工夫がつかぬのだ、大義名分らしいものを称(とな)えていながら、努力の目標は必ず個人、個人を乗り越えてまた個人、世間の難解は、個人の難解、大洋(オーシャン)は世間でなくて、個人なのだ、と世の中という大海の幻影におびえる事から、多少解放せられて、以前ほど、あれこれと際限の無い心遣いする事なく、謂わば差し当っての必要に応じて、いくぶん図々しく振舞う事を覚えて来たのです。

主人公が考える「世間」。世間を個人に帰着したとして、自己中心的な個人が作り上げる世間はいかなるものか。コミュニケーションが希薄化した現代においても通ずるテーマがあるように思う。そして、その上で「罪」とは何なのか。
最後に個人的に気に入った部分。

自分は所謂「同志」に紹介せられ、パンフレットを一部買わされ、そうして上座のひどい醜い顔の青年から、マルクス経済学の講義を受けました。しかし、自分には、それはわかり切っている事のように思われました。それは、そうに違いないだろうけれども、人間の心には、もっとわけのわからない、おそろしいものがある。慾、と言っても、言いたりない、ヴァニティ、と言っても、言いたりない、色と慾、とこう二つ並べても、言いたりない、何だか自分にもわからぬが、人間の世の底に、経済だけでない、へんに怪談じみたものがあるような気がして、その怪談におびえ切っている自分には、所謂唯物論を、水の低きに流れるように自然に肯定しながらも、しかし、それに依って、人間に対する恐怖から解放せられ、青葉に向って眼をひらき、希望のよろこびを感ずるなどという事は出来ないのでした。

まさにマルクス経済学に欠けているものを指摘している。欲でも虚栄心でも説明し足りない人間の本性。人間の心のドロドロした部分を切り落としてしまったところに、マルクス経済学の限界があるように思う。では現在主流の経済学がどこまで接近できているか、はなはだ疑問であるが。
ちなみに、 デスノートでL(エル)役を務める松山ケンイチさんは、青森県むつ市の出身。