青森空襲

青森空襲記念碑

7月28日は青森市民にとって重い日です。今から61年前の今日である1945年7月28日、青森市は激しい空襲を受けたのです。青森空襲を伝えるページによると、わずか1時間11分の空襲で青森市は市街地の81パーセントを焼失しました(米戦略爆撃調査団調べ)。この空襲があったために、青森市内には戦前の歴史的建築がわずかにしか残されていません。
投下されたM74焼夷弾は従来型を改善した新型焼夷弾で、アスファルトの道路をドロドロに溶かすほど高温の炎で街を包みました。市民の犠牲については、1945年8月3日付け青森県知事発防空総本部宛報告で死者731名、焼失家屋15,111戸と報告されています。(第一復員局法務調査部第四科調査では994名の死者)
この空襲により、弘前大学医学部の前身に当たる青森医学専門学校は附属医院および寄宿舎を失いました。このため、戦後(1947年3月10日)に青森医学専門学校校舎は弘前市に移転し、弘前大学医学部に吸収されてしまいます。この空襲がなければ、青森市にも大学病院が残り、戦後の青森市の成長にも大きな影響を与えたことでしょう。いろいろな意味で、青森空襲は青森市に多大な被害をもたらしたようです。
何とも複雑なのは、被害を拡大した原因に青森市役所が関わっていることです。空襲に先立つ7月14および15日にアメリカ軍艦載機が青函連絡船を攻撃したことから、戦局の悪化を察知して市内から疎開・避難する市民が続出しました。しかし7月18日県当局が「これら疎開者に対しては断固たる措置を取る」と声明を出し、これを受けた青森市役所が21日「逃避者は28日までに復帰しなければ配給を停止」すると布告しました。疎開・避難していた市民は続々戻ることになったのですが、復帰期限の夜に空襲が行われ被害が拡大してしまいました。
写真の記念碑は空襲から逃れる母子をデザイン化したもので、置かれている場所は青森市役所の正面です。被害を拡大させた責任を感じて、この場所に置かれているのかは分かりませんが、常に鎮魂の思いを忘れないようにしたいものです。折りしも多数の千羽鶴が供えられていました。日本の夏はどこか寂しいものがあります。