青森県・三都の事情

青森県

青森県はほぼ同一の人口を持つ3都市圏が鼎立(ていりつ)する構造を持っている。青森市弘前市、そして八戸市の都市圏である。経済学的には、3つも同規模の都市が鼎立する構造は、規模の経済*1を生かせないというデメリットが存在する。なぜ1都市に集約できないのだろうか。青森県に来て分かった青森県の事情を思いつくままに書いてみたい。

津軽と南部

これには、地理的な事情や少し複雑な歴史的背景を見る必要がある。青森県は西部(津軽)と東部(南部)*2で旧藩主が異なるだけでなく、気候も風土も大きく異なっている。西部は日本海側で冬は雪深いが、稲作には向いている。東部は太平洋側で冬の雪は少ないが、ヤマセと呼ばれる冷たい風により稲作は不利で、畑作や酪農が中心となる。
西部と東部を分ける八甲田山系は、日本列島の背骨である奥羽山脈の端に当たるために大変険しい。いまだ八戸市青森市を結ぶ高速道路も整備されていない状況が端的に示すように、地理的な分割の度合いは大変大きなものがある。
地理的分割は方言の違いにも現れていて、西部は津軽弁、東部は南部弁が話されている。特に語彙に大きな差が見られ、お互いクイズが作れるほどの違いが存在する。
西部(津軽)と東部(南部)は歴史的な反目があったことも事情を複雑にしている(以下では津軽と南部という呼称を用いる)。津軽を統一した津軽氏が南部藩主の家来であったため、謀反のような位置付けがなされる場合がある。幕末から明治維新にかけては、津軽が新政府軍、南部が幕府軍に就いたことも、反目を大きなものにした。実際、1868年(明治元年)に野辺地で両軍が衝突している。
気候、風土、地理、歴史、そして言葉・・・そのすべてが異なる津軽と南部。両地域の人々の間に、微妙な心理的距離があるのは事実のようである。しかし、この違いを乗り越えて協力する努力が多くなされていること、人々の往来も活発であることもまた事実である。
東部(南部)の代表都市として、八戸市が中核になることは極めて当然のことである。

弘前と青森

同じ津軽でありながら微妙な力関係なのが、弘前市青森市津軽の中心都市は長らく弘前で、青森は漁村に過ぎなかった。しかし、維新後に青森県が発足すると、津軽の中心・弘前と南部の中心・八戸の中間に位置する青森市*3が県庁所在地に設定された。地図を見れば明らかなように、津軽と南部を統一するのであれば、青森市に県庁が置かれるのは自然なことであった。
この機運を高めたのが、北海道の存在。明治以降の北海道開拓の玄関口として、青森市は物資と人員が交錯する経済都市として絶大な発展を遂げることになった。北海道の土地の広さ、可能性の大きさ、そして移動人口の大きさを見れば、北海道の飛躍が青森市にもたらした影響は計り知れないものがある。
本来であれば、県庁所在市に機能を移転し、経済も文化も一ヶ所に集めるのが、よく見られる現象であるが、城下町としての弘前市の文化の高さは無視できないものがあった。青森市に機能が集約できなかった最大の理由は、青森大空襲の存在が大きい。市域の8割以上も焼失し、青森市にあった医学専門学校は弘前市に移ってしまった。
これほど甚大な被害を出した理由は、戦争終結を図るアメリカが意欲的に新型焼夷弾を使用したこともあるだろう。青森市は文化の一翼を担う医学専門学校を失い、新制国立大学は弘前市に発足した。経済は青森市、文化は弘前市、という不思議な分業が生まれることになった。
青森県は1985年(昭和60年)以降は人口減少を続け、皮肉にも人口減少社会の先駆けとなっている。人口減少の大きな理由の一つに、規模の経済が働く大都市の不在があるのではないか。同じ津軽に位置する青森市弘前市は、相互に強固に連携し、あたかも巨大な都市として機能しないかと私は考える(市町村合併により、青森市弘前市の市域は大きく近付いた)。そのためにも、青森市弘前市を結ぶ国道7号線の全線4車線化、奥羽本線の複線化の早期実現を主張する。

最後に

青森市弘前市、そして八戸市はそれぞれに素晴らしい特色を持っている。3都市の優劣を述べたものではないことを確認しておく。

*1:規模の経済とは、生産規模の拡大に伴ってコストが下がり、効率が上昇すること。スケールメリット。「三省堂大辞林」より。

*2:青森県東部を指す「南部」という名前は南部氏に由来するもので、南という意味ではないことに注意を要する。

*3:青森市の市制施行は弘前市よりも後であるが、紛らわしさを防ぐため青森市と呼ぶ。